dunhill
オンラインストア
レザー
筆記具
カフリンクス
アクセサリー
JFA
コレクション
Spring Summer 2011
Autumn Winter 2010
Spring Summer 2010
Autumn Winter 2009
ホーム
ロンドン
東京
上海
香港
地域/言語
ヘルプ
ウィッシュリスト (
0
アイテム)
マイ アカウント
ショッピングバッグ (
0
アイテム)
The Man
人
革新者としてのアルフレッド
アルフレッドは、製品開発の新しいアイディアを常に探し求め、顧客や自分自身の経験からインスピレーションを受けていました。彼いわく「我々の店舗は、実験室です。常にあらゆる新製品を置いてみて顧客の賛同という反応試験にかけているのですから」。
常に市場を革新する方法を探していたアルフレッドは、1900年代初頭から生み出してきた様々な発明を管理するため、1908年に自前の特許開発会社を設立しました。そして1922年、アルフレッドは、バッグを開けた時に点灯する内部灯の特許を取得しました。
アルフレッド ダンヒル
1887年、アルフレッド・ダンヒル(1872 - 1959)は父の馬具製造業を手伝うようになりました。1893年に父が引退した後には、事業の方向転換を図り、当時先駆け的な存在だった自動車愛好家向けの製品を作ることに専念しました。
この自動車用品事業は大きな成功を収め、その成功の理由を問われたアルフレッドは、「良い物を提供していることに自己満足しているだけではいけない。代金に見合った価値があると、お客様に満足していただけるものを提供しなければ。」と答えています。
クレメント コート
ラ・ペ通り15番地のパリ店のリテールマネージャーでもあったクレメント・コートは、アルフレッド同様、美しく独自性のある芸術品に情熱を抱いていました。この情熱は店の商品にも注がれ、パリ店は「エレガンスとの出会い」と評されるほどにスタイリッシュなブティックへと成長しいていきました。
また、クレメントは、ダンヒル ナミキペンを生んだ並木製作所とアルフレッド ダンヒルの協力関係を築くために、大きな役割を果たしました。
写真家としてのアルフレッド
アルフレッドは、趣味としてムービーと写真を楽しみました。コレクションに残された多くの写真から、彼の人生の様々な時期をうかがい知ることができます。
とりわけ興味深いのは、「オールド・バーン」と名付けられた自宅でアルフレッドが撮った家族のムービーです。これらの映像を見ると、アルフレッドの人となりを身近に感じることができます。
ケーリー グラント
英国出身の俳優、ケーリー・グラントは、「赤ちゃん教育」、「フィラデルフィア物語」、「泥棒成金」、「北北西に進路を取れ」などの映画作品でよく知られ、スクリーン上でカリスマ的な魅力を放っていました。ロンドンを訪れる機会があった際は、彼はよくダンヒルを訪れたものでした。
「1934年2月7日、ヴァージニア・チェニル嬢と映画スターのケーリー・グラント氏、ご来店」 - ハリー・ディーの日誌
アルフレッド・ヘンリー・ダンヒル
自分の前に父がそうであったのと同様に、アルフレッドが事業から引退した時、彼は家族が事業に関わってくれることを大変喜びました。なかでもアルフレッド・ヘンリー・ダンヒルは、ダンヒル社で働いた後、会長兼社長に就任しました。
アルフレッド・ヘンリーがその気骨を真に表したのは、1941年のこと。敵の空爆によりデューク・ストリートが破壊された後も、「ダンヒルへのご用を承ります」と書いた看板を目立つように掲げ、営業を続けたのです。
自動車愛好家としてのアルフレッド
自身も熱心な自動車愛好家だったアルフレッドは、仕事のほかにも、多くの時間を費やして自分の車を運転したり、エンジンの性能を高める改造を行ったりしていました。
生まれたばかりの自動車文化に対するアルフレッドの情熱は、ガレージに並んだ車のエンブレムを見ればわかります。それらは、ベントレー、ロールスロイス、フォード、ダイムラーなど、実に多岐にわたりました。
コレクターとしてのアルフレッド
アルフレッドは、仕事場でのインスピレーションや絶えざる革新への情熱を、周囲の人々や収集の趣味から得ていました。
アルフレッドが自宅で収集した品々を見ると、彼が美術と彫刻を愛好していたことがはっきりとわかります。彼のこのような一面は、1920年代のダンヒルショップで提供されていたきわめて装飾的な品物にも表れています。
ハリー ディーのダイアリー
アルフレッド ダンヒルは常に、鑑識眼の優れた人々にとって魅力的な製品を作ることを目指していました。その結果、非常に多種多様な顧客から愛顧を受けたのです。
1930年代の初め、従業員のハリー・ディーは、デューク・ストリートの店で買い物をした人の名前、日付、買った物を記録したら面白いだろうと考えました。
1931年には、「世界で最も背の高い男性(8フィート4インチ)が来店、数点お買い上げ」という記入があります。
トーマス ダンヒル - アルフレッドの弟
一族のほとんどがダンヒルの事業に携わる中、アルフレッドの弟であるトーマス・ダンヒル(1877- 1946)だけは例外で、音楽への興味を追求することに満足を見出しました。
著名なアイルランド人作曲家のチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードのもとで学んだ後、イートンカレッジと英国王立音楽大学で教鞭を執り、連作歌曲「葦間の風」、オペレッタ「タンティヴィ・タワーズ」などを世に送り出しました。
ウィンザー公
デュークストリートの店を訪れたヨーロッパの国家元首や英国の王族たちの中には、その非の打ちどころないスタイルと感じの良い物腰、そしてその幅広い交流で、1920年代から1930年代の社交界でよく知られていたウィンザー公がいました。ウィンザー公は、ダンヒルで数多くの様々な品物を購入し、人に見られずに店に出入りするために隠し通路を使用したほどです。
また、ハリー・ディーの日誌には、1931年12月23日に、「英国皇太子殿下ご来店、『秘密箱』にいたく興味を示された。いくつかご試用のためにお届け」という記入もあります。
パブロ ピカソ
ピカソは、生涯を通して様々な女性と関わってきました。その中に、写真家で画家のドラ・マールがいました。ドラはピカソの長年の友であり、愛人でもあり、ゲルニカの制作過程を写真に記録したのも彼女でした。
ピカソは、制作期間の大部分をパリで過ごしましたが、ダンヒルのパリ店をよく訪れ、ドラのためにライターを購入しました。世界にひとつだけのライターにするため、ピカソはそのフタをドラのポートレートのエッチングで飾りました。
The Product
製品
フレグランス
ダンヒルが男性用グルーミング用品として1934年に販売した「ダンヒル フレグランス フォーメン」は、好評を博しました。ガラスボトルは、ギアの歯を思わせるシックなデザイン、フタはホイールナットに着想を得たもので、自動車用品を手掛けたダンヒルの歴史を思い起こさせるものでした。以来、フレグランスのボトルには様々な形が採用され、米国では、1950年代にダイス(サイコロ)やボウリングのピンに着想を得たデザインのボトルのフレグランスが販売されました。
カクテルセット
ダンヒルが酒類関連の小物を扱い始めたのは、自動車用品事業の初期からで、ランチョンセットの中にフラスコ瓶、コルクスクリューなどのオプションが用意されていました。1930年代前後には、ダンヒルはこのような品を、様々な素材、サイズ、形状で提供しました。顧客の間で人気が高かったアイテムは、カクテルシェイカー、そしてコンペンディウム ケースに収められていたスウィズルスティックです。
1950年代には、これら2製品を組み合わせ、実用性と機能性を兼ね備えたスターリングシルバー製のカクテルセットを発売しました。
ダンヒル ナミキペン
1920年代から1940年代にかけてパリにあるラ・ペ通り店の責任者を務めたクレメント・コートは、1920年代後半に並木製作所(現・株式会社パイロットコーポレーション)の営業担当者である和田節治氏を紹介され意気投合。並木ペンの美しさとクラフトマンシップに魅了されたクレメント・コートは、ダンヒルと並木製作所による筆記具コレクションの実現に尽力し、その後1930年にはコレクションが世界で発売されました。2005年には、ダンヒルとナミキの提携は75周年記念を迎えました。
ダッシュボード クロック
ダンヒルが時計の販売を始めたのは、ダッシュボード クロックを発売した今から100年以上も前の1903年のこと。ダッシュボード クロックは、1,300点もの自動車関連用品の一部として、当時のダンヒル カタログに掲載されました。
自動車のダッシュボードに取り付けられるこの時計は、初期のオープンカーでしばしばドライバーを悩ませた英国の悪天候からムーブメントを保護するため、上下がさかさまになっていました。
キーウォッチ
キーウォッチは、エレガンスと機能性を併せ持ち、ダンヒル製品の本質を如実に表すアイテムです。
1937年のカタログで初めて紹介されたキーウォッチは、リストウォッチやポケットウォッチなどのダンヒル タイムピース コレクションの新アイテムとして人気をよびました。
コールマン マスタード缶 ライター
1919年、ワイズとグリーンウッドという2人の発明家が、コールマン社の粉マスタードの缶で、片手で扱う世界初のライターを開発しました。新しいもの独創的なものを常に探し求めていたアルフレッド・ダンヒルは早速この2人と手を結びました。
ダンヒルは1920年代初めまでには世界中の販売権を取得し、初の高級石油ライターを3つの旗艦店で発売しました。このライターは見事成功を収め、機能が極めて安定していたことから、「エヴリタイム(いつでも火がつく)」として知られるようになりました。
ダンヒル トゥイニー ライトカー
初期の自動車用品事業でアルフレッドがよく用いた広告のうたい文句は、「自動車以外のすべてを」でした。しかし、110台限定のダンヒル「トウィーニー ライトカー」が登場してからは、「自動車装備のスペシャリスト」に変更されました。
「トウィーニー」は、端正な2気筒の自動車で、前進7速とリバースギアを備え、モートリティーズの真鍮製ホーン、ヘッドランプ、そして名高い「トウィーニー」マスコットなど、ダンヒル製品で特別装備されていました。
コンペンディウム
ダンヒルコンペンディウムケースは、精巧で美しい作りと多機能性を備えたアイテムがもてはやされた1930年代のニーズに応えるものでした。デザインの傑作と言うべきこのケースは、18金ゴールドなど様々な貴金属を用いて作られており、男性のコートのポケットにぴったり収まる大きさでした。
コンペンディウム ケースには、時計、鉛筆、カクテル スウィズル スティック、ノートパッド、ライター、ペンナイフを収納することができます。
メンズウェア
カスタム/ビスポーク(オーダーメイド)の衣料品を提供してきたダンヒル。初めは自動車愛好家向けのものでしたが、後に他のアイテムも手掛けるようになり、1977‐78年秋冬シーズンで初めて、メンズウェアのフルコレクションを発表しました。
顧客の趣味を意識して、最初のコレクションには、トラディショナルなアイテムを揃えました。当時の評論家たちは、「いずれも素晴らしい服だ。最高級の素材のみが使われ、細部まで丁寧に仕上げられている。」と評価しています。
モートリティーズ ランチョン/ティーアウトフィット
1920年代にロイヤルアスコット競馬場を訪れたファッショナブルな観客は、革張りの「モートリティーズ ランチョン&ティー アウトフィット」を携えていたものです。この中には、温かい食べ物と冷たい食べ物それぞれを入れるボックス、お湯をわかすコンロとケトル、そして、バター、ジャム、携帯薬を入れられる容器が入っていました。今も昔も英国のサマーシーズンにおいて重要な位置を占めるエレガントなピクニックには、このようなアクセサリーが欠かせませんでした。
カスタムレザー ジャケット
ユーストン・ロードにあるダンヒル モートリティーズのビルは、1904年にオープンし、事務所、工房、小売スペースを備えていました。テイラーも抱えていたため、ダンヒルは、顧客に注文仕立てのレザー製ドライビングウェアを提供することができました。
顧客は、カタログの中の用紙に寸法を記入し、ユーストン・ロードに送り返すだけで、レザージャケット、トラウザー、コート、ウェストコートを注文することができました。
ボビー ファインダー
1900年代初めにアルフレッドダンヒルが創り出した数々の自動車専門用品のひとつに、「ボビーファインダー」があります。これは、双眼鏡と自動車用ゴーグルを足して二で割ったようなものでした。
1903年、制限時速12マイルをはるかに上回る時速22.5マイル(時速約36キロ)で走行してスピード違反の切符を切られたことに憤慨したアルフレッドが創り出したのが、「ボビー ファインダー」でした。このボビー ファインダーがあれば、「紳士を装った警官でも、半マイル先から発見できる」と謳われました。
The Company
会社
空爆後のデューク ストリート - ロンドン(1941年)
1939年に第二次世界大戦が始まり、1940年代の初めには、ロンドンはドイツ軍による空爆の最大の対象となり、首都のあちこちで建造物への大規模な被害が出ました。
ダンヒルショップも、1941年4月17日に直撃を受けました。空爆の記事は多くの全国紙に掲載され、瓦礫の前に立ってダンヒル製品の販売を続けるアルフレッド・ヘンリーの写真は、ロンドン全体(そしてイングランド全体)を勇気づけました。
「自動車以外のすべてを」
アルフレッドの初期の自動車用品事業は、警笛や衣服、ランプ、ロードマップ、応急工具キットやダッシュボードクロックに至るまで、「自動車以外のすべてを」顧客に提供していました。
自動車用品事業は1931年まで続き、イングランドにおいてドライブに対する人々の受け止め方が徐々に変化するにつれ、事業も発展していきました。やがてドライブが楽しいレジャーとして受け止められるようになると、ダンヒルは様々なピクニックセット、トランク、さらにはなんと持ち運びできる浴槽まで発売しました!
ニューヨーク
アルフレッドと交流のあったD・A・シュルト氏は、ダンヒルというブランドを米国で紹介したいと申し入れ、1921年、ダンヒルの店舗がニューヨーク42丁目の5番街にオープンしました。
1930年代までに店は大成功を収め、ロックフェラーセンターのブリティッシュ・エンパイア・ビルディング内に再移転しました。5フロアに広がる小売スペースでは、ゲームのセットからカクテルセットまでどんなものでも販売していました。
デューク ストリート - ロンドン
1907年、アルフレッドは新たな事業に乗り出しました。それは、現代のジェントルマンに高級アクセサリーを提供することでした。当初の商品はパイプなどでしたが、その後はコレクションを拡大し、レザーグッズ、時計、ライター、香水など幅広い商品を扱うようになりました。
アルフレッドが選んだ店舗の場所はセントジェームズ地区にあり、数多くのファッショナブルな会員制クラブに囲まれていました。また、フォートナム アンド メイソンのような小売店もすぐ近くにあり、格好の場所だと感じたのです。
アメリカへの進出
1950年代を通じて、ダンヒルは米国においてラグジュアリーと同義語に受け止められていました。当時の広告には、このような言葉があります。「シャンパン、キャビア、そしてダンヒル」
ほどなくして、米国内に店舗を増やす必要が生じました。拡張計画が立てられ、1951年にロデオ・ドライブ店、1958年にシカゴ店、1961年にサンフランシスコ店が開店しました。
新しい時代
第二次世界大戦でデューク・ストリートの店舗が壊滅的な被害を受けた後、1955年にダンヒルの新たな本拠地の建設が始まりました。ひとつの大きな違いは、新しい店がジャーミン・ストリートとデューク・ストリートの両方に面していたことです。
新しい建物は、ダンヒルにとって新しい時代の訪れを象徴するものでした。オーデコロンからディナージャケット、ライター、旅行鞄にいたるまで、さらに幅広い新商品を取り揃えたこの店は、それまで以上に魅力的な店となりました。
アジアへの進出
欧米で順調に事業を拡大した後は、アジアとオーストラリアへの進出が当然の成り行きと思われました。
こうして、1966年には香港、1969年には東京に店舗がオープンしました。東京店では、開店1年目の「英国週間」にマーガレット王女殿下とスノードン卿を含む多くの訪問者を迎えました。王女夫妻は1時間半かけて店内を回り、イベントのためダンヒルに特別に貸し出されていた銀器の展示に大きな関心を寄せていたそうです。
リュー・ド・ラペ15番地 - パリ
第一次世界大戦が勃発すると、ダンヒルは前線の将校たちに製品を送り始めました。ダンヒル製品が米国やフランスの人々の目に触れ、その結果、戦争が終わった時にはダンヒルは新しい顧客層を獲得していたのです。
1924年には、ダンヒルはパリのラ・ペ通り15番地に店舗をオープンしました。フランス店はこれまでになかった新しいコレクションを紹介する場となり、ヨーロッパ中から届く様々な素材や、新たなデザインを集め、最も贅沢でエレガントな芸術品を陳列していました。
ダンヒルのカタログ
1910年代から30年代を通して、ダンヒルは通販カタログを製作していました。カタログは社内で製作され、1934年以降は「ロングテール」のロゴを使用するとともに、英国皇太子の紋章である「スリー・フェザーズ」を表示するようになりました。
これらのカタログは、カスタムレザーやユニークな時計、装飾性高い筆記具など、当時からどれほど多様な製品が作られていたかを物語る絶好の資料となっています。こうして、ダンヒルは、確固たる独自性を持つようになり、誇りをもってそのコレクションを世に示したのです。
事業を引き継いで
アルフレッド・ダンヒルは、1887年に家業の馬具製造業を手伝うようになり、父のもとで見習いとして働きました。この期間に、アルフレッドは事業の仕組みを現場で覚え、すぐに企業経営の複雑さを理解し始めました。
1893年に父が引退すると、アルフレッドが事業を継ぎました。当初は馬具や馬車用品を作り続けていましたが、やがて、新しい交通手段である自動車のアクセサリーを開発することに関心を持つようになりました。
ダンヒルカップ
長年にわたり、ダンヒルは様々な分野でスポンサーシップを引き受けてきました。たとえば、1968年のオリンピックでは英国のヨットチームを後援し、1978年から1982年までは、冒険家ラノフ・ファインズ卿の世界横断旅行に物資を提供しました。これらの物資は、マイナス53℃にも耐えなければなりませんでした。
1985年、各国の代表が3人のチームで競い合うゴルフトーナメント、「ダンヒル カップ」が発足しました。最初の優勝杯を勝ち取ったのはオーストラリアで、チームメンバーは、グレッグ・ノーマン、グレアム・マーシュ、デヴィッド・グレアムでした。
359-361 ユーストン ロード
自動車関連の事業を発足させるためにアルフレッドが最初に開いた店舗のひとつは、ユーストン・ロードにありました。元々あった馬具専門店と区別するため、店の正面には「ダンヒル モートリティーズ」という看板を掲げました。
1900年代初頭までには、ダンヒルは、自動車愛好家たちにあらゆる種類の自動車用品を提供するようになっており、1904年には1300種類以上の新製品を紹介するカタログを発行しました。
フォローする
Twitter
Facebook
メーリングリストに登録して最新情報を受け取る
全ての欄に入力してください。
* 入力必須項目
Email アドレス *
性別 *
男性
女性
お誕生日
月
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
年
1996
1995
1994
1993
1992
1991
1990
1989
1988
1987
1986
1985
1984
1983
1982
1981
1980
1979
1978
1977
1976
1975
1974
1973
1972
1971
1970
1969
1968
1967
1966
1965
1964
1963
1962
1961
1960
1959
1958
1957
1956
1955
1954
1953
1952
1951
1950
1949
1948
1947
1946
1945
1944
1943
1942
1941
1940
1939
1938
1937
1936
1935
1934
1933
1932
1931
1930
1929
1928
1927
1926
1925
1924
1923
1922
1921
1920
1919
1918
1917
1916
1915
1914
1913
1912
1911
1910
送信
キャンセル
ありがとうございました
閉じる